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太田述正コラム#10712006.2.5

<防衛施設庁談合事件等に思うこと(続)(その3)>

 以上お話ししてきた、戦後日本の閉塞状況に風穴があく気配が見えたのが、1993年8月の細川護煕(1938年?)政権の誕生でした。

 このことを皆さんに感じ取っていただくために、私のただ一回限りの細川首相との「遭遇」についてご披露することにしました。

 1994年3月、防衛大学校(防大)の卒業式の10日ほど前のことです。

 総理秘書官から当時防衛庁の内局で教育課長(防大も所管している)をしていた私に電話がかかってきました。総理が急遽中共を訪問することになったので、総理が防大の卒業式に出席できなくなったというのです。

 防大の卒業式には総理が出席して祝辞を述べるのが恒例になっている(注3)ので、私は驚き、直ちに防大当局にその旨を伝え、協議した結果、総理が祝辞を述べるところをビデオに撮り、卒業式の前日に卒業予定者を一室に集めてこのビデオを見せようということになりました。

 (注3)総理が防大の卒業式に出席しなかったのは、後にも先にもこの一回切りだ。

 そこで、この話を総理秘書官に伝えたところ、総理の快諾が得られました。

 そこで私は、さっそく課員に本屋に行ってもらって、店頭に並んでいた細川氏の著書数冊を買ってきてもらい、それらに目を通し、かつ総理になってからの細川発言にもできる限り目を通した上で、細川氏になったつもりで祝辞の原案を書き上げました。そして一応上司に見せた後、この原案を官邸にFAX送付しました。

 官邸からの返事は、「総理が秘書官に口述筆記させた祝辞案を送る、なお、(官邸に隣接する)総理公邸で後日ビデオ撮りするので、その手配をせよ、また、ビデオ撮りの経費は防衛庁で負担せよ」、というものでした。

 驚いたのは、総理は、原稿を見ずに、ビデオカメラを見つめて祝辞を読みたいので、プロンプター(カメラの前に設置された透明な板に原稿の文章が順次投影される装置)を用意せよ、という総理の意向が示されたことです。米国の大統領のスピーチなどでは使われていると聞いていたけれど、それまでの日本の首相が誰も試みたことのない方式に挑戦しようというのです。

 一体どこに頼めばいいのですか、と総理秘書官に聞いても、初めてのことだから分からない。防衛庁で調べよ、と言われ、あちこち問い合わせて、ようやくつきとめ、ビデオ撮りを担当する会社も確保しました。

 いよいよ口述筆記された祝辞案が送られてきた時、私は仰天しました。

 私のつくった原案の痕跡も残っていないではありませんか。私の努力は何だったのか、とがっくりきました。

 弱ったのは祝辞案の中に、「防大卒業生が社会の各方面で活躍することを期待する」という趣旨の一節が含まれていたことです。

 これでは任官拒否を奨励しているようなものだからです。

 実は私自身は、総理のこの考えに全面的に賛成でした。学生に陰に陽に圧力をかけて自衛官以外の道を選ばせない、というやり方は望ましくない。そもそも防大卒業生の数に比べて自衛官の幹部(将校)定数が少なすぎるということもあり、文武両道を身につけた卒業生が、正々堂々と胸を張って社会の各方面で活躍してくれる方が長い目で見れば防衛庁・自衛隊のためになる、と考えていたのです。そのためにも、防衛医科大学校に倣って、何年間か任官義務を負わせ、「満期」以前に転身を図る者は、防大時代の教育費用の全部または一部を返戻させる制度を導入すべきだ、と思っていました。

 しかし、いかんせん話が唐突すぎました。防大側も強く反発したので、私は総理秘書官に頼み込んで総理を説得してもらい、このくだりを落とす了解をやっとのことで取り付けました。

 こうしてようやく祝辞が確定し、課員の一人がワープロ(当時はまだパソコンではなかった)でプロンプター用のフォーマットでこれをタイプしたのは、ビデオ撮り当日のことでした。ワープロの調子が悪かったため、一時もうダメかと観念しましたが、ぎりぎり所定の時間までにタイプ打ちが完了し、プロンプター担当の会社の人に渡すことができました。

 いよいよ公邸でのビデオ撮りの時がやってきました。

 それまで官邸の中には何度も入っていますが、総理公邸には、内局の予算班長の時に、経理局長の指示で、(当時の大蔵省出身の総理秘書官の目を盗んで)公邸の玄関前で中曽根首相(当時)の私設秘書に極秘資料を届けて以来であり、中にはいるのは初めてでした。

 玄関を入り、ビデオ撮りを行う洋間で待っていると細川首相が入ってきました。私の挨拶が済むと、総理が、ビデオカメラの位置や距離を自分でてきぱきと指示するのにまずびっくりしました。ビデオ撮りが始まってもう一つ驚いたのは、祝辞の中で空白にしておくよう指定されていた箇所にさしかかると、英国の詩人の長文の詩の日本語訳を、あたかもプロンプターに表示されているかのように、よどみなく暗唱し始めたことです。さすが熊本藩の細川家と貴族の近衛家の嫡流はすごい、と思いました。

 いかがですか。

 先例にとらわれない、官僚に依存しない、先見性がある、マスメディアの時代のコミュニケーション術を心得ている、教養がある、恐るべき人物だと思いませんか。

 この細川氏が率いる細川内閣は、何とその翌月の4月には突然終焉を迎え、超短期間の死に体の羽田孜内閣を経て、日本の政治の時計は逆戻りししてしまい、村山富市内閣という異例の形ながら、55年体制が復活し(注4)、現在に至っているのです。

 (注455年体制とは、私に言わせれば、どちらも吉田ドクトリン墨守政党たる自民党と社会党が事実上の連立関係を組んでいた体制を本来は指(拙著「防衛庁再生宣言」日本評論社58頁注25参照)し、1955年から細川内閣成立によって一旦中断したが、村山内閣成立によって、自民党と社会党が形式上も連立関係を組んだ形で復活した、と見ることができる。その後、社会党(社民党)は事実上消滅したが、自民党は、公明党と野合する形で政権にしがみついており、55年体制は依然続いている。

ちなみに、1995年1月の阪神大震災の時の村山内閣の失態は、55年体制の何たるかを如実に物語っている。村山氏が首相を辞任したのは1996年だが、その2年後くらいに、私的勉強会で、村山氏の話を直接うかがう機会があった。阪神大震災の朝、時間をおってどんな情報が自分の所に入ってきたか、そしてご自分がその都度何をされたかについて訥々と語られるのを伺った限りでは、村山氏に全く落ち度はないことははっきりしていた。最大の問題は碌に情報が入っていなかったことだ。私が総理だったら、いや、私が村山首相の秘書官だったら首相に進言し、自衛隊に対し情報収集と救援活動の実施を速やかに命じただろう。自衛隊は空中偵察・機動能力を豊富に持っているだけでなく、障害物を乗り越え、排除しつつ偵察・機動する能力のある日本で唯一の組織だからだ。ところが、当時、村山氏に誰もそんなことは教えなかったし、兵庫県知事も、自衛隊との関係が疎遠であったこともあり自衛隊への出動要請が大幅に遅れてしまった。この時、連立政権の相手方の自民党の総裁であった河野氏が総理であったとしても、防衛庁長官の経験もない彼が、村上氏以上のことができたとは思われない。

(完)

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