太田述正コラム#1250(2006.5.22)

<英米すら日本に「誤った理解」を抱いている(その2)>

 ここで一言申し上げておきます。

「インパール作戦(ウ号作戦)とは、1944年(昭和19年)3月から開始された日本陸軍によるインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のこと。補給線を軽視した杜撰な作戦により、歴史的敗北を喫し日本陸軍瓦解の発端となった。 無能な司令官による、無茶な作戦の代名詞としてしばしば引用される。」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6。5月22日アクセス)というのがインパール作戦についての一般的評価ですが、このこと自体は間違いではありません。

しかし、これは木を見て森を見ない議論の典型です。

なぜなら、インパール作戦なかりせば、先の大戦への日本の参戦は、米国の不条理な挑発に答えた単なる独立自存のための参戦で、日本は敗れることによって独立を失ったわけですから、不名誉だけが残ったことでしょう。

ですが、インパール作戦があったからこそ、インドは独立し、英帝国の中心的植民地が独立したことで、英帝国は崩壊したわけです。結果論としてではあれ、日本はインパール作戦によって、アジアアフリカの欧米植民地主義からの解放をもたらす、という世界史的名誉を授けられたのです。

 その根拠は、インド独立時の英首相であったアトリーの、あるインド人の質問への答えにあります(下掲。http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html前掲)。

問:1947年までにはガンジーの<非暴力主義反英>活動はすっかり尻つぼみとなっていたというのに、どうして英国は慌ただしくインドを去る必要があったのか?

アトリー:いくつかあるが、最大の理由は、ボースの軍事活動により、英印軍のインド人兵士達の英国に対する忠誠心が崩壊したからだ。

問:英国がインドから去る決定を行うに当たって、ガンジーの影響はどれくらいあったのか。

アトリー:(一音節ずつゆっくりと)minimal(=ほぼゼロだ。)
 
 私がかねてより世界最高と太鼓判を押してきたガーディアンが、しかも日本の最高の理解者である英国のガーディアンが、どうしてこの種記事になると歪曲や意図的省略をしでかしてしまうのか、このあたりで謎解きをしましょう。
 何度か記したところですが、英国人にとって、先の大戦後、大英帝国が瓦解したことはトラウマとなっています。もう少し具体的に言うと、大英帝国の瓦解それ自体がトラウマである上、先の大戦後、しかも直後に大英帝国が瓦解したということは、先の大戦が英国流の植民地の維持(帝国の維持)それ自体の是非を問うたものであって、かかる意味での先の大戦に英国は敗れたのではないか、という疑心暗鬼がトラウマとなっており、二重のトラウマに英国人は苛まれているのです。
 先の大戦が英国流の帝国の維持それ自体の是非を問うたものであり、英国はこの大戦に敗れたのだとすれば、勝ったのは誰なのでしょうか。
 言うまでもなくそれは、香港及びマレー半島を席巻し、その上インパール作戦を決行した日本(注7)と、このインパール作戦を共に戦ったボースのインド国民軍です。

 (注7)では、同じく日本軍に席巻された仏領インドシナやオランダ領インドネシア、更には米領フィリピンの先の大戦後の独立を英国人はどう考えているのか。英国は、仏蘭米の植民地政策は拙劣極まると見ており、仏蘭米の帝国の喪失は遅きに失したという突き放した見方をしているように私は思う。(そのものズバリの典拠にはまだ遭遇していない。)
     ちなみに、ボースのインド臨時政府が発足した時、この政府を承認したのは、日本・ビルマ・クロアチア・ドイツ・フィリピン・中華民国南京政府・満州国・イタリア・タイの9カ「国」政府だったが、フランスのヴィシー政府は承認を拒否した(http://www.ihr.org/jhr/v03/v03p407_Borra.html上掲)。ナチスドイツの傀儡政府でさえ拒否するほど、フランスの帝国維持への執念は凄まじかった、ということだろう。

 この深刻な事実から眼を逸らすべく、英国人はことあるごとに、先の大戦を単純に、ホロコーストを引き起こした人類の敵であるナチスドイツ及び
その一味、と正義の味方であるアングロサクソンとの戦いとして、無理矢理総括しようとするのです。 だから、ガーディアンでさえ、日本もボースも、ナチスドイツの一味となった悪党にしたいのだし、させないではおけないのです(注8)。

 (注8)以上の私の見方が形成されたのは、英国防省の大学校に留学していた1988年の秋、同期の一部同僚とともにインド亜大陸の一ヶ月間の研修旅行に言った時、カルカッタでボースの話が出た時に、英国人の同僚(陸軍准将)が私に吐き捨てるように、「ナチの共謀者(collaborator)め」と言った瞬間に遡る。
(続く)