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太田述正コラム#1405(2006.9.12)
<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その5)>

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 「アングロサクソン対欧州という<法系の対立>図式の中で、ドイツはそのどちらに属するのか」という質問がホームページの掲示板上で読者からあったので、お答えしましょう。
 日本の法学部を出た人間であれば誰でも、「英米法と<欧州>大陸法という図式の中で、ドイツの法系はどちらに属するのか」と聞かれたら、即座に後者の大陸法、と答えることでしょう。
 すなわち、正解は「ドイツは欧州に属する」です。
 しかし、そのようにお答えすると、新たな疑問が湧いて来るかも知れませんね。
 私がコラム#1399で、メイトランドを引用(マクファーレンから孫引き)して、「欧州では、少数派たる外来のゲルマン系の人々はゲルマン法、多数派たる土着のローマ・ガリア系の人々はローマ法という具合に法系が並存していた西ローマ帝国崩壊直後の時代を経て、やがて地域ごとにその地域の慣習法をベースにした俗化したローマ法が法として通用するに至っていたところ、・・1200年頃から・・フランス・スペイン・イタリア・ドイツ・低地地方・・といった、それまでの地域を超えた大地域単位が出現し始め・・、これらの大地域単位の首長(国王等)達がそれぞれ、地域ごとに異なっていた法に代わって大地域単位共通の法として、純粋なローマ法を採用した」と記したことはご記憶のことと思います。
 ここから、ドイツはアングロサクソン同様、ローマ帝国内に侵入しなかったゲルマン人なのだから、ローマ帝国内の土着の人々の法系であったローマ法とは直接関係を持たなかったはずであり、ゲルマン人の法を堅持したのではないか、しかもドイツは、フランスやスペインとは違って、大地域としての凝集力が弱かったのではないか、それなのにそのドイツで1200年以降、純粋なローマ法が採用されるに至ったのはどうしてなのか、という疑問が湧いてきても不思議ではありません。
 実は、フランク帝国が分裂し、やがてその東の半分(後のドイツ)の首長となったオットー(Otto)に対し、何を間違ったか、962年に法王が神聖ローマ帝国皇帝(Holy Roman Emperor)の称号を与えたことが、ドイツのローマ法継受の大きな伏線になったのです。
オットーの王国は、帝国と称するには狭すぎるし、ローマと称するには北方過ぎる上、神聖でも何でもなかった、と皮肉るむきもあるところ、歴代の神聖ローマ皇帝は、自分達は、ローマ帝国の再興を図ろうとしたビザンツ帝国(東ローマ帝国)皇帝ユスティニアヌス(注10)の正統な後継者なのであるからして、ユスティニアヌスの事跡に倣わなければならない、という脅迫観念に取り憑かれるに至ったのです。

 (注10)Justinian 1(483??565年)。旧西ローマ帝国の領域中、北アフリカ、イベリア半島南部及びイタリア半島をゲルマン人から奪い返した。(
http://en.wikipedia.org/wiki/Justinian_I。9月12日アクセス)

 そして、ユスティニアヌスの最大の事跡の一つが、ローマ法の集大成であるローマ法大全(Corps Juris)の編纂であったことから、ローマ法の普及は神聖ローマ皇帝の責務となったのです。
 (以上、特に断っていない限り
http://history-world.org/holy_roman_empire22.htm、及び
http://cunnan.sca.org.au/wiki/Holy_Roman_Empire
(どちらも9月11日アクセス)による。)
 11世紀から12世紀にかけて法王と皇帝の間で戦わされた叙任権論争(1059??1122年。コラム#546、1229、1230、1232、1236、1242)も、ローマ法の普及に大きな役割を果たしました。というのは、法王側も皇帝側も、自分の主張を裏付ける根拠をローマ法に求めた結果、イタリア、ドイツ等でローマ法の研究が盛んになったからです
http://www.fordham.edu/halsall/sbook1l.html。9月11日アクセス)。
 そして、「イタリアのボローニャの法学校がローマのユスティニアヌス<の>法典の研究・教育を始めたことを契機として、1200年頃から、どの地域においても、この法学校伝来の純粋なローマ法の再継受が進」む(コラム#1399)ことになります。
 とりわけ、徹底的な(再)継受が行われたのがドイツであり、単にローマ法の継受と言えば、15世紀から17世紀にかけてのドイツにおけるローマ法継受を指すところにその徹底ぶりが推し量れます。すなわち、ドイツにおいては、ゲルマン人の法がローマ法によって取って代わられただけでなく、陪審制の廃棄や法の言語のドイツ語からラテン語への切り替え等が行われたのです(
http://links.jstor.org/sici?sici=0002-8762(194210)48%3A1%3C20%3AROTF%22O%3E2.0.CO%3B2-7)(注11)。

 (注11)ローマ法を継受したところのドイツ法及びドイツ法学は、欧州全域の法及び法学をリードしていくことになる。また、17世紀において、30年戦争が終わってウエストファリア条約が結ばれ、ドイツ諸邦の独立性が更に高まると、これらの国家間の関係を規律する法が必要となり、当時神聖ローマ帝国圏、すなわちドイツ圏内の一地方であったオランダ出身のグロティウスらが、ドイツの私法をベースにして国際法を生み出すことなる。この二つはドイツ法ないしドイツ法学の世界に対する二大貢献であると言えよう。
http://history-world.org/holy_roman_empire22.htm前掲)
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(続く)

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