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太田述正コラム#1616(2007.1.13)
<ブッシュの新イラク戦略(特別編)(その1)>(2007.2.14公開)

1 始めに

 今回、新イラク戦略が打ち出されたことに伴い、兵力不足を最初に指摘したシンセキ米陸軍参謀長(当時)が改めて話題になるとともに、イラク多国籍軍司令官としてこの新戦略を軍事面で実行に移すペトラユース米陸軍中将にスポットライトがあたっています。

2 シンセキ米退役陸軍大将

 シンセキ(Eric K. Shinseki。1942年11月??。米陸軍参謀長1999??2003年)陸軍大将は、ハワイのカウアイ島に広島県出身の祖父と日系二世の両親の下に生まれました。奥さんも日系人です。
 彼は、米陸軍士官学校を卒業してから、ベトナム戦争に二度従軍してその都度大けがを負ったため、陸士の同期より昇任が2年近く遅れ、一旦は陸軍を辞めてロースクールに入ろうとするのですが、ベトナム戦争後多数の優秀な陸軍士官達が辞めていく中でベトナム戦争経験のある自分のような人間が陸軍には必要だと思い直して陸軍に残ることにしました。
 その後彼は、米デューク大学で英文学の修士号を取得します。
 将官になってからは、とんとん拍子に昇任し、作戦及び計画担当陸軍参謀次長を経て1997年に大将となり、在欧米陸軍司令官兼中央ヨーロッパ連合司令官兼NATOボスニアヘルツェゴビナ安定化軍司令官を経て1998年11月に陸軍副参謀長、そして1999年6月に第34代陸軍参謀長になります。日系米人としてどころか、アジア系米国人として、最初の大将となり最初の特定軍種の長となったのです。

 シンセキは、陸軍参謀長に就任すると、ただちに米陸軍の大改造計画(transformation)に着手します。
 これは、1930年代後半に、当時のマーシャル(George C. Marshall)米陸軍参謀長が、小さい平時の陸軍であった米陸軍を第二次世界大戦を戦って勝てる大陸軍に改造した時以来の大改造計画でした(注1)。

 (注1)米陸軍は、冷戦時代の10個師団体制を維持していた。うち6個が重師団、4個が軽師団だった。重師団はエイブラムス戦車(Abrams tank 。70トン)やブラッドレー装甲戦闘車(Bradley fighting vehicle。40トン)といった装備を中心に編成されていたのに対し、軽師団は歩兵を中心に編成され、歩兵を戦場までパラシュート・歩行・ヘリによって運んだ。
     しかし、重師団の装備は重すぎて輸送機では運べないため、戦場に重師団を運ぶだけで月単位の時間がかかるだけでなく、原野や砂漠のような戦域以外では動きが鈍重であり、かつ補給も大変だった。例えば、1999年から2000年にかけてコソボ紛争にNATOが介入した際、投入された米重師団は殆どものの役に立たなかった。また、軽師団は装備が脆弱であり、本格的な戦車や長射程火器を持つ敵には勝てなかった。例えば、1990年にイラクがクウェートを占領した際、最初にサウディアラビアに派遣された、(軽師団隷下の)第82空挺師団は、フセインがサウディアラビア侵攻を試みなかったからよかったようなものの、もし試みておれば粉砕されていた。

 それは、重師団と軽師団を廃止し、不整地でも離着陸できるC-130輸送機で運ぶことができる(それぞれが20トン以下の)軽くて小さい諸装備、しかもできる限り多くの共通部品からなるゆえ補給が容易な諸装備を持つところの、軽師団並に軽快な、しかも、重師団の装甲を無人機やITを駆使した情報力と兵員の判断力によって代替することによって兵員の損耗を防止する陸軍部隊・・これをシンセキはObjective Forceと呼んだ・・を創出することによって、米陸軍を、平和維持活動や都市戦闘ができて、同時に本格的な戦車や長射程火器を持つ北朝鮮やイラク等の敵とも戦闘することができるような柔軟な、かつ迅速に任務に就くことができる陸軍に改造しよう、というものでした。
 シンセキは陸軍内外の守旧派の抵抗にあって、苦戦を続けつつ、在任中に上記部隊の原型となるストライカー旅団(Stryker Brigade)を誕生させます。

 ブッシュ政権が2001年に発足し、ラムズフェルト(Donald Rumsfeld)が国防長官、ウォルフォヴィッツ(Paul Wolfowitz)が国防副長官に就任すると、最初のうちはラムズフェルトらとシンセキはうまく行きそうに見えました。
 ラムズフェルトらも、米軍全体の軽快化を図ろうとしていたからです。
 しかし、やがて両者の間に溝ができて行きます。
 ラムズフェルトは軍事革命(RMA=Revolution in Military Affairs)論者だったからです。
 ラムズフェルト流軍事革命は、空軍の精密照準爆撃や海軍の巡航ミサイル攻撃といった、ハイテク長距離精密攻撃能力(high-tech, long-distance precision-strike capability)を重視していました。
 これは、レーガン政権の国防長官であったワインバーガー(Caspar Weinberger)によって発案され、後に統合参謀本部議長当時のパウエル(Colin Powell)によって完成されたドクトリン・・重大な国益に関わり、世論が強く支持し、確実に勝利を収めることができ、撤兵戦略が描ける場合にのみ軍事力を行使する、というドクトリン、にも合致していました。
 要するにパウエル・ドクトリンもラムズフェルト流軍事革命も、無血戦争(bloodless warfare)を追求するものであったのです。
 ここから、敵にも米軍にも、とりわけ米軍の血が流れることが必至である陸軍の投入はできるだけ避ける、だから陸軍はそんなに必要ではない、という考え方が出てくるわけです。
 シンセキは、冷戦終結後、陸軍の相対的役割はむしろ大きくなったと考えていたのに、ラムズフェルトらは小さくなったと考えていたのですから、両者の蜜月時代が長くは続かなかったのは当然だったのです。
 (以上、
http://www.newyorker.com/archive/content/articles/030407fr_archive04?030407fr_archive04
http://en.wikipedia.org/wiki/Eric_Shinseki
(1月13日アクセス)による。)

(続く)

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