太田述正コラム#1608(2007.1.7)
<日本の民主主義の源も江戸時代(その2)>(2007.7.5公開)

 (4)結論
 
 以上見てきたように、日本では江戸時代後期には、武士以外の社会においては民主主義が普及していた、と言っても過言ではなかったのです。

3 民主主義を指導原理とした明治維新

 (1)五箇条のご誓文

 庶民に近かった土佐藩の郷士出身の坂本龍馬(1836〜67年)が、1867年に船中八策(注4)を書いた時に、実質その冒頭に「上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事」、すなわち民主主義を掲げたことは、以上のような文脈の中で理解すべきであると私は考えています。

 (注4)下掲のように、公議政体論のもと、憲法制定、上下両院の設置による議会政治、不平等条約の改定、海軍力の増強、金銀の交換レートの変更などが記されている(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E4%B8%AD%E5%85%AB%E7%AD%96
。1月7日アクセス(以下同じ)。
第一策。天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事
第二策。上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事
第三策。有材の公卿・諸侯、および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事
第四策。外国の交際、広く公議を採り、新たに至当の規約(新条約)を立つべき事
第五策。古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事
第六策。海軍よろしく拡張すべき事
第七策。御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
第八策。金銀物価、よろしく外国と平均の法を設くべき事
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj010829.html

 町人であった父親が幕臣榎本家の株を買い、同家に婿養子に入ることで武士になったところの榎本武揚(1836〜1908年)(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A
が、戊辰戦争の「賊」軍の敗残兵を率いて函館五稜郭に立てこもり、独立政権を称したとき、この政権の幹部を決める選挙を実施し、その選挙の結果、政権の総裁に就任した(
http://rekitan.net/person/060901.html
)ことも、何ら驚くには当たらないことになります。

 そして、坂本の船中八策に越前藩の由利公正(1829〜1909年)が手を入れたものを踏まえて、1868年の維新に際し、明治天皇(1852〜1912年)は五箇条(注5)を神に誓う形(誓文)で詔勅を発せられます。

 (注5)五箇条のご誓文
一、広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フベシ
一、官武一途庶民ニ至ルマデ各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ
一、知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ

 その冒頭で、「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スベシ」、すなわち民主主義が掲げられているのはまことに自然なことなのです。
 このご誓文が近現代日本を貫く大方針となったことを、敗戦翌年(1946)の昭和天皇(1901〜89年)は、「昭和二十一年年頭詔書」で明記し、再確認しています。
 (以上、
http://homepage2.nifty.com/kumando/mj/mj030306.html
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/sovereignty/meiji&syowa.html
による。)

(続く)
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― (以下は半年前の話です!(太田))

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