太田述正コラム#1613(2007.1.10)
<日本の民主主義の源も江戸時代(その4)>(2007.7.7公開)

 要するに、自由民権運動からもはっきり見えてくるのは、幕末から明治期にか
けて、横井小楠コンセンサスとでも呼ぶべきものが、幕府側・反幕側、明治政府
側・反明治政府側を問わず、日本の指導層の間で共有されていた、ということで
す。
 そうだとすれば、常識的に考えれば、幕末の日本に、横井小楠コンセンサスを
受け入れる基盤があったに違いない、ということになるはずです。
 ところが、先の大戦以降の日本の人文・社会科学者の大部分は、そんなことは
思ってもみないようです。

 かなりいい線を行っているのが、例えば、2005年11月に開催された東京大学附
属図書館の展示会です。
 この展示会のホームページの「天賦人権論のあゆみ」のところ(
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2005/tenji/index-n.html
)を見ると、英米の自然法思想と開化史の考え方が日本の自由民権思想を生んだ
とは言わず、「側面から支援した」としているからです。
 自然法の思想とは、人間には自然法的な各種の自由が備わっているとする思想
であり、「開化史」( History of Civilization )の考え方とは、人間が未開の
状態から次第に文明、すなわち立憲政体の状態に達してきたとする考え方です。
 スマイルズ、ミル、バックル、ウエィランド(以上英国人)、ルソー、ギゾー
(以上西欧人)の著作ないしはその翻訳書を通じてこの思想・考え方が明治初期
の自由民権思想を「側面から支援した」というのです。
 しかしそれなら、自由民権思想は一体いかなる「正面」から生まれたというの
でしょうか。
 残念ながら、このホームページのどこにもその回答は示されていません。

 戦後それほど時間が経っていなかった頃の日本の人文・社会科学者は、これら
の欧米人の著作ないし翻訳書に接し、啓発された日本人の有識者達が明治初期に
自由民権思想を唱え始めた、と単純に考えていました。
 典型的なのが、日本史学者の故家永三郎(1913〜2002年)です。
 家永の「革命思想の先駆者―植木枝盛の人と思想―」(岩波新書1955年)で、
彼は次のように言っています。
 「<自由民権思想家の中で最もラディカルな一人であった>植木・・・はフラ
ンスやイギリスの民主主義理論、ことにスペンサーからもっとも大きな影響を受
けたらしい。」(23頁)
 「翻訳書の教養から枝盛の偉大な識見が生れ出た一例をみれば、翻訳書が日本
の歴史にたいし思ったより大きな貢献をしたことを考えないではいられない。」
(12頁)
 欧米の本が流入しただけでその社会が自由・民主主義社会になる・・・いやそ
こまで行かなくても強力な自由・民主主義運動が起きる・・・のであれば、とっ
くの昔に世界中が自由・民主主義社会になっているはずです。
 鍵となるのは、その社会に自由・民主主義的基盤があるのかどうか、あるとし
てどれくらい基盤があるのか、であることに家永は全く気付いていないようです。
 そんな家永ですから、「植木・・・によれば、ルソーの社会契約説も、ベンサ
ムの功利主義も、別にヨーロッパ人の専売特許ではなく、東洋にもその伝統を求
め得る普遍的な真理にほかならなかった」(25頁)と、植木自身が日本に自由・
民主主義的基盤があることを示唆しているらしいのに、気に留める様子がありま
せん。
 いわんや家永には、植木もまた横井小楠コンセンサスを当然視しているのであ
って植木の自由民権論はパッケージとしての横井構想の一環としてとらえるべき
である、という発想などは全くありません。
 だからこそ家永は、「<明治20年に・・・植木は、朝鮮を清の支配下から脱せ
しめ、その独立を保たしめるとともに、日本の商権を朝鮮にのばし、>実際の上
にては鶏林八道を日本の植民地と為すほどにまでいたらしむるを望むべけれ」と
いう非武力的な帝国主義を夢みるにいたる」(114〜115頁)、とか、「枝盛の・
・・憲法草案には「軍兵は国憲を護衛するものとす」という一条があった。・・
・<また、彼の>「憲法」という稿本には、「海軍を大に拡張する事・・・陸軍
は大に縮小する事」の二条がある・・・<つまり植木も>陸海軍の必要は認めて
いる」(118頁)といった的はずれのことを言ってしまうのです。

 (注7)鶏林八道は、李氏朝鮮時代の行政区を纏めて言い表したもので、現在の
韓国と北朝鮮の行政区画の基礎となっている。朝鮮八道と呼ぶこともある。ちな
みに、鶏林とは新羅王朝の出身地で同王朝の朝鮮半島統一後は歴代統一政権の美
称となった。(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%85%AB%E9%81%93
。1月10日アクセス)

 植木は、英国にならって、極力(交易を通じた)経済力、そして(自由・民主
主義的)政治力、更には海軍力でもって、ロシアの膨張を阻止すべきであると主
張しているのに、家永は植木の主張が全くもって理解できないわけです。
 その植木が、「固より欽定憲法なり、國約憲法にはあらざるなり・・・然れど
も・・日本人民が憲法と称するものある國の人民となりしことを失はざるなり・
・・憲法発布日を以て國祭日と為すべし」(65〜66頁)と日本が立憲国家になっ
たことを手放しで喜んだことをわれわれは注目すべきでしょう。
 植木には、日清戦争や日露戦争での日本の勝利、そして大正デモクラシーの到
来が見えていたに違いないのです。

(完)