太田述正コラム#1789(2007.5.31)
<イギリス内戦(その2)>(2007.7.22公開)

 ((その1)を過早に公開してしまったので、これも早めに公開します。2007.7.22太田)

 (2)新説の概要

 アダムソンの新説は、私の理解では、必然性史観ないし近代化史観から解放されたところの「清教徒革命」概念の復活です。
 以前(コラム#90、1334、1695で)ご説明したように、イギリスは、コモンローと(国民主権ならぬ)議会主権の国であり、主権の帰属するところの議会が自ら選んだリーダー(長くは国王、18世紀後半以降は首相)に政治と軍事の全権を委ねる、という国でもあります。
 アダムソンに言わせると、そのイギリスで、17世紀の中頃、清教徒(Puritan)的なキリスト教原理主義に取り憑かれた人々が、このようなイギリスの不文憲法を破棄して、欧州的な、すなわち、古代においては共和制ローマ、当時においてはベニス共和国を念頭に置いた、(民主制ならぬ寡頭制的)共和制をイギリスに樹立しようとした、というのです。
 このアダムソンの説は、自由主義史観やマルクス主義史観と違うのはもちろんですが、チャールスの国王として不適切な資質に原因を求めたりしてイギリス内戦生起の偶然性を強調するところの修正主義史観とも異なっています。

 もう少しご説明しましょう。
 チャールス1世は、英国教会を儀式(sacrament)を重視するという点でカトリック(High Anglicanism)的に染め上げようとしました。
 これに対して清教徒の間から批判の声が挙がると、チャールスの任命したカンタベリー大僧正のロード(William Laud)は、彼らを逮捕し、うち3人を、耳を切り落とす刑に処しました。その上ロードは、清教徒達に英国教会の儀式に参加することを強要したのです。
 イギリス・スコットランド・アイルランド3国の統合を目指していたチャールスが、このカトリック的英国教会をスコットランドにも導入しようとした時、階統制の確立した英国教会とは違って清教徒(スコットランドではPresbyterianと呼んだ)のゆるやかな連合体であったところのスコットランド教会は、チャールスの動きに反発し、叛乱が起きます。
 そこで1640年に、この叛乱鎮圧の戦費を確保するためにチャールスが議会を招集したところ、議会は戦費の提供を拒否し、怒ったチャールスは議会を解散します。いわゆる短期議会です。
 この頃から、イギリスの清教徒の貴族達の中から、スコットランドの清教徒達とも連携しつつ、上述のような共和制をイギリスに樹立しようとする動きが出てくるのです。
 1640年にチャールスが再び議会(長期議会)を招集すると、上記貴族達は、議会内で寡頭制支配を確立し、政治と軍事の全権を掌握して国王の権限を大幅に削減し、翌1641年にはチャールスの寵臣のウェントワース(Thomas Wentworth)を逮捕、処刑します。
 たまらずチャールスはロンドンを脱出し、1642年に王権回復の内戦を始めるのです。
 この内戦は、1642〜45年の第一次内戦、1648〜49年の第二次内戦、そしてチャールス1世が処刑されて文字通りの共和制(Commonwealth)が樹立された後の、その息子のチャールス2世を一方の旗頭とするところの1649〜51年の第三次内戦と続き、いずれも王党派側が敗れることになります。
 このようにこの内戦は、革命を目指した清教徒ないし議会派と反革命の国教会派ないし王党派との戦いであり、前者が勝利することで、清教徒革命が成就するのです。
 ちなみに、この内戦と重なり合う形で、アイルランドにおける原住民(カトリック教徒)とイギリス政府・・基本的に清教徒ないし議会派・・との間の戦いが1949年から53年にかけて行われ、原住民の30%が戦病死するか亡命を余儀なくされ、原住民の全所有地が没収され、イギリス人の間で山分けされます。
 しかしその後、1660年の王制復古によって、清教徒革命は全面否定されることになります。

 (以上、http://en.wikipedia.org/wiki/English_Civil_War前掲で補足した。)

4 所感

 キリスト教原理主義なるイデオロギーに取り憑かれた人々が、国王抜きの神の共同体(godly commonwealth)たる共和制の樹立を目指した、とくれば、これは、その1世紀以上後に起こった米独立革命の先駆的事件であると言いたくなります(注2)。

 (注2)アイルランド原住民の迫害と土地収奪を伴ったという点は、米独立革命の先取りというよりは、英領北米植民地から建国後の米国において北米原住民に対してなされたことの先取りであると言えそうだ。

 このような意味において、清教徒革命から王制復古にかけてのこの時期は、世俗的かつ議会主権を旨とするイギリスが、最も欧州(あるいは米国)に接近した、イギリス史における異常な一時的逸脱期であったと私は考えているのです。(完)