太田述正コラム#1626(2007.1.19)
<イギリス大好き人間の弁明(その2)>(2007.7.24公開)

 支那と西欧のことは分かったが、日本はどうだったのかと聞かれそうなので、ここで簡単に説明しておきます
 徳川幕府は、1614年にキリスト教の禁教令、宣教師国外追放令を発し(
http://homepage3.nifty.com/pilgrimage/nenpyo.htm
。1月19日アクセス(以下コラム#1626内において同じ)、1669年には日蓮宗不受不施派の寺請を禁制としています(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97%E4%B8%8D%E5%8F%97%E4%B8%8D%E6%96%BD%E6%B4%BE
)が、この2派を除き、江戸時代では教学の自由が事実上認められていました。
 1702年の赤穂浪士の討ち入り事件をめぐって有識者の間で法・道徳論争が自由闊達に戦わされたことを思い出してください(
http://www.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/text/titech/shukyo/resume/resume09.html
)。
 松平定信による1790年のいわゆる寛政異学の禁も、幕府立の昌平坂学問所において、儒教の中で朱子学以外を教えてはならないとしただけのこと(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E7%95%B0%E5%AD%A6%E3%81%AE%E7%A6%81
)です。
 その証拠に、同じ儒教でも、荻生徂来(1666〜1728年)が推賞した朱子学ならぬ陽明学を講じても何らお咎めはありませんでしたし、朱子学と神道をミックスした山崎闇斎(1619〜82年)の垂加神道だって弾圧されるようなことはありませんでした(
http://www.valdes.titech.ac.jp/~hashizm/text/titech/shukyo/resume/resume09.html
上掲)。
 石田梅岩(1685〜1744年)を開祖とした、神道、仏教、儒教をミックスし、庶民を中心に江戸時代末期に全国的に広まった心学もまた弾圧はされませんでした(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%96%80%E5%BF%83%E5%AD%A6)。
 それどころか、儒教や仏教を排する国学まで、江戸時代中期に勃興します(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6)。

 ところで、8代将軍の徳川吉宗が、儒者の室鳩巣に命じて『六諭衍義』という支那の道徳書を『六諭衍義大意』という初等教科書として編纂させ、町奉行の大岡忠相に命じて評判の良い江戸の手習師匠(寺子屋師匠)10人に与え、以後、江戸で手習師匠を表彰する時には、この本を授けることが習いとなりました。
 しかし、これは幕府による庶民への儒教的道徳の強制などというものではありませんでした。
 そもそも、六諭(六っつの教え)というのは、親の言うことを聞け、年長者を敬え、隣近所とは仲良くせよ、子供を正しく導け、自分の仕事をちゃんとやれ、まちがったことをするな、という常識的な項目ばかりで、忠義についての項目などなかったといいます。
 (以上、石川英輔『雑学「大江戸庶民事情」』講談社文庫139、141頁)

 このように見てくると、江戸時代の国家と道徳の分離状況は、現在の西欧における分離状況に比肩しうるような気がしてきませんか。

(続く)