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太田述正コラム#1622(2007.1.17)
<戦前の米国の対英戦争計画(続)>(2007.7.25公開)

<バグってハニー>
 フィリピン併合はもうほとんどいちゃもんですよ。そんなこと言ったら英国もマレー半島を持っていたせいで日本と戦争することになっちゃったじゃないですか。陣取り合戦にどちらが悪いかなんてないですよ。
 日露戦争では日本の肩を持つことによって東アジアにおけるロシアの台頭を防ごうとしたように、バランス・オブ・パワーの観点から、その後の日本の台頭(満州・日中戦争・南方進出)を米国が見逃さないのは当たり前だと思いますけどね。
 当時(今でも)アジア人に対する偏見があるのは確かですが、そんな不合理なものに国策を委ねてたら今の米国の繁栄なんてありえないですよ。

<島田>
 合衆国は、大英帝国と大日本帝国の屍の上に帝国を築くという戦略だから「陣取り合戦」という意味では、合衆国が大日本帝国を敵視したのは正しい選択だったのではないでしょうか?
 そもそも、合衆国のイデオロギーは唯我独尊で日本や英国のような君主国やナチスやソ連のような全体主義国も本質的に敵なわけですし。
 第二次世界大戦末期に、ブレトンウッズ会議で米英の角逐は始まり、スエズとイランで米が完勝することで、米英関係が定まったと思います。
 米英関係は、生来的同盟国というわけではないですが、似たもの同士なので妥協と契約が成立しやすいという関係ではないでしょうか?

<太田>
 以上は、コラム#1614へのコメントとしていただいたものですが、コラム#1621に盛り込めなかった部分に簡単にお答えします。(バグってハニーさんからは、日露戦争に関するコメントもいただいていますが、朝河の本が今手元にないので後回しにします。)
 ちなみに、島田さんの第二次世界大戦後に関するご指摘については、「イラン」の部分はともかくとして、おおむね私も同感です。
 さて、島田さんのコメントをもじって申し上げますが、「合衆国のイデオロギー」からすれば、「日本や英国」は本質的に味方、「ナチスやソ連(ロシア)」は本質的に敵ということになるはずであり、「合衆国」が当時、「日本や英国」を敵視し、軍事力の行使をちらつかせてまで「日本や英国」に敵対行動をとったのは誤った選択だったというのが私の見解です。
 しかも、米国自身のほか英国植民地(カナダとカリブ海の諸島)及びメキシコ等からなる北米大陸に比べれば、東アジアにおける米国の国益など、戦前においてはたかが知れていたはずです。(フィリピンに対しては、無理矢理併合してから、米国はすぐに関心を失います。)
 そんな地域にしゃしゃり出てきて、ソ連(ロシア)や蒋介石政権や中共に肩入れして日本と敵対した米国は度し難い、と思うのです。
 黄色人種に対する強い偏見が米国の反日感情を増幅させた、と考えざるをえません。
 その結果は、東アジアにおいて、取り返しの付かないほどの被害をもたらした戦禍や災厄を次々に生起させただけでなく、現在なお無数の支那、北朝鮮等の人々に反自由・民主主義的体制下での生活を強いる原因をつくったのです。
 米国は、当時既に経済超大国であっただけに、1929年に自らが引き起こした大恐慌によって、全世界に多大な迷惑をかけたということも忘れてはならないでしょう。
 このように戦前の米国は、現在の米国とは違って、露骨な帝国主義を信奉し、有色人種偏見に凝り固まった制御なき資本主義の国、という狂った存在であり、共産主義に凝り固まった戦前から戦後にかけてのロシア(ソ連)と好一対の存在だったのです。
 最後に、島田さん言うところの米英関係については、近親なるがゆえに、両者の間にわれわれの想像を絶する愛憎関係がある、といったところではないでしょうか。

<別の読者>
 日英同盟解消について、岡崎久彦さんは幣原喜重郎外相のイニシアチブを言っていますが、これについてはいかがお考えでしょうか。
 「もし幣原喜重郎という当時の日本として稀(まれ)な外交官がイニシアチブを取って代案を作ってこれを破棄していなければ、英国はとうてい自分からは破棄を言い出せなかった。」(
http://www.okazaki-inst.jp/061202-tokyo.html

<太田>
 外務省の公式サイトに、「ワシントン・・・会議開催<(1921〜22年)>当時、<外務次官を経て>駐米大使であった幣原喜重郎<(1872〜1951年)>は、全権としてこの「ワシントン体制」の構築に深く関与しました。・・・イギリスは当初、日英同盟の内容を実質的には変更せずに、アメリカを加えた「日英米三国協商」を提唱しましたが、これに対して幣原は、イギリス提案から軍事色を取り払い、何か問題が起きた際には関係国間で互いに協議するという試案を英米両国に提示しました。この「幣原試案」をもとに日本・イギリス・アメリカ・フランスの4カ国で協議が進められ、1921年12月13日に4カ国代表が本条約に調印、日英同盟はこれに吸収される形で解消されました。」(
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shidehara/01.html
)とあるように、幣原に日英同盟解消について一半の責任があることは事実です。
 英国の上記提案は、米国の日英同盟解消要請を受け、タテマエは同盟維持だが、ホンネは同盟の実質的解消を意図して行われたと考えるのが自然であり、それが分かっていた幣原は、国際協調を重視する考え方に則り、英米のホンネに無批判に同調した、ということでしょう。
 この場合、協調する相手方の英米の利害がほぼ一致していたので国際協調外交がたまたま綻びを見せなかったのです。
 その幣原が外務大臣に就任(1924年6月〜1927年4月)し、国際協調を重視する姿勢を支那にも適用し、対支融和(対支内政不干渉)政策を打ち出します。
 ところが、これはとんでもない結果をもたらすことになるのです。
 例えば、1927年3月に、国民党軍が北伐の一環として南京を攻略した際、南京にいた外国人に対し、掠奪、殺人等を行ったことに対し、英国が国民党軍懲罰のための日英米共同軍事介入を日米に求めたところ、当時既に支那寄りの姿勢であった米国が介入に消極的であった上、対支融和政策をとってきた幣原の判断で日本もまたこの共同軍事介入に反対したため、結局軍事介入は行われずじまいでした。
 大事なポイントは、対支内政不干渉(対支協調)は対米協調を意味する一方、対英非協調を意味した、ということです。
 このような列強間の足並みの乱れに乗じて国民党政権や中国共産党の国際法無視の姿勢は一層甚だしくなる一方、米国はもちろん、英国も爾後支那への軍事介入を控えることとなります。
 そして、日本が支那に持っていた利権は次々に無視され、支那在留日本人の生命財産は一層脅かされるようになり、日本の世論の対支感情は急速に悪化して行きます。
 この世論に推される形で日本は単独での支那への軍事介入を開始するのです。
 (以上、
http://ww1.m78.com/topix-2/hidehara.html
及び、拙著「防衛庁再生宣言」212〜214頁による。)
 幣原と言えば、戦後直後の首相時代に、マッカーサー憲法の非武装条項を積極的にendorseした人物としても知られています。
 どうやら幣原にはアングロサクソンの何たるかも、そのアングロサクソンたる英米の違いも分かっていなかったようです。
 致命的なのは、アングロサクソンについて無知であったこととも関係していますが、彼が完全な軍事音痴だったとしか思えないことです。
 その幣原は、東大法学部卒であり、外交官試験合格者として初めて外務大臣に就任した人物でもあります。
 まさに幣原は、東大法学部教育と日本の近代官僚制の欠陥を象徴しているような無能かつ無責任な人物である、と私は考えています。
 従って、岡崎久彦氏が、彼が「近代日本で最も敬愛する2人の人物」のうちの一人に幣原喜重郎を挙げている(
http://www.okazaki-inst.jp/061202-tokyo.html
)のは、外務省関係者に甘い岡崎さんのことですから必ずしも驚きませんが、私には全く理解できないことです(
http://www.okazaki-inst.jp/061202-tokyo.html )。

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